
「感謝として生きる」という死生観 ― 親鸞に学ぶ【かんおけin体験者の話 #5】
編集部がお手伝いしている体験型施設「かんおけin」では、本物の棺桶に30分入った体験者の方に、ご希望があれば色紙に「あなたにとって生きるとは?」を書き残していただいています。




SHIKISHI GALLERY
色紙ギャラリーを見る ›ありがたいことに、これまで60人以上の方に色紙を記入いただきました。こうして並べて眺めると、書かれた言葉にいくつかのグループが浮かび上がります。
本シリーズ「かんおけin体験者の話」では、このグループを一つずつ取り上げ、それぞれに響き合う思想家を一人紹介していきます。シリーズ第五弾は 「感謝として生きる」 グループ。色紙には「ありがとう」「生かされている」「grateful」が繰り返し登場します。本日は、このグループに響き合う思想家として、13世紀の越後で他力の念仏を説いた僧 親鸞 と、彼の言葉を弟子の唯円がまとめた 『歎異抄』の「報恩感謝」 を紹介します。
本記事で引用している色紙は、いずれもサイト掲載のご許可をいただいた方のものです。お気持ちが変わって取り下げをご希望の場合は、メールにてご連絡ください。
色紙に共通するトーン
「感謝として生きる」グループの色紙には、はっきりした共通点があります。
まず 主語が消えている。「ありがとう」「生かされている」。「私が」「自分が」という能動の主語が消え、誰かに「されている」受動の構えで書かれます。
次に 動詞が「受ける」側。「生かされる」「出会える」「grateful for」。自分の力で生きているのではなく、何か大きなものから与えられている、という構えです。
そして 言葉が短い。「ありがとう」「生かされていること!!」と感嘆符まじりで完結する。長い説明はいらない、という態度がそのまま字数に現れます。
ありがとう
生かされているということ
This experience made me more relaxed and grateful for my life, family, and friends :)
(この体験で、自分の人生・家族・友人にもっとリラックスし、感謝の気持ちを持つことができました)
書かれた瞬間、棺桶を出たばかり。30分の暗闇のなかで、自分の体ひとつになったあとに、書かれているのが「ありがとう」だというのが、このグループの不思議なところです。
そしてこの三つの言葉は、800年前の越後で一人の僧が弟子に語った一節と、ほとんど重なります。
親鸞 ― 流罪に処された僧が説いた「他力」
平安末期から鎌倉初期にかけて、親鸞(1173–1262)という僧が日本にいました。
彼の生まれは恵まれていたとは言えません。9歳で出家し、比叡山延暦寺で20年間修行を続けますが、自力で悟りに至ることに行き詰まり、29歳で山を下ります。京都の法然のもとで 「ただ念仏を称えれば救われる」 という他力の教えに出会い、生涯これに従いました。
しかし35歳のとき、念仏停止の弾圧が起こり、親鸞は越後(現在の新潟)に流罪となります。僧籍を剥奪され、「非僧非俗」(僧でも俗人でもない)を名乗って、雪深い土地で農民とともに念仏の生活を続けました。流罪が解けたあとも京には戻らず、関東で20年、晩年に京に戻って90歳で没するまで、ただ念仏を称え、人に念仏を伝えることに生涯を捧げました。
そんな彼の言葉を、晩年に弟子の唯円が書き留めたのが 『歎異抄』 です。書名の由来は「異なるを歎く」(=親鸞の死後、教えが歪められていくのを歎いて、唯円が自分の聞いた師の言葉を書き残した)。そのなかにこんな一節があります。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
訳すれば、「念仏が本当に浄土に生まれる種なのか、地獄に堕ちる行為なのか、まったく自分は知らない」。そのうえで親鸞は「ただ念仏する」と言いました。見返りを期待しない。利益を計算しない。ただ阿弥陀仏の本願に報恩感謝して念仏する。これが彼の到達点でした。
20年間自力で悟りを目指して挫折し、流罪に遭い、雪国で農民と暮らした男が説いた言葉です。だからこの一行は、軽くない。
「報恩感謝」 ― 計算しない感謝
親鸞の説いた感謝は、現代の「ありがとう」とは少し違うところ があります。
現代の「ありがとう」は、しばしば 取引の感情 です。何かをしてもらったから感謝する。期待した結果が得られたから感謝する。期待が外れれば感謝は消える。
親鸞の感謝はそうではありません。「報恩」。つまり、すでに与えられていることに気づき、そのお返しとして念仏を称える。順序が逆なのです。何かをしてもらったから感謝するのではなく、生まれて、息をして、いま生きているという事実 そのものが、すでに与えられた恩。だから感謝が先にあり、自分の行為はすべてその恩への返礼として後からついてくる。
親鸞自身が、他力の教えを最も深い場所で受け取ったとき、こう言っています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
訳すれば、「阿弥陀仏が遥かな時間をかけて立てた誓いをよく考えると、それはただ親鸞ひとりのためのものだった」。自分はこんなにも深く受け取られている。この気づきが、親鸞の感謝の出発点です。
色紙の言葉にも、この構造はそのまま現れます。「ありがとう」「生かされていること!!」。これらは自分が能動的に生きているのではなく、何かに受け取られている、という構えで書かれています。だから「生きる」を「生かされる」と書く。主語が消えるのではなく、主語が大きなものに引き取られている のです。
そしてもう一行。
This experience made me more relaxed and grateful for my life, family, and friends :)
(この体験で、自分の人生・家族・友人にもっとリラックスし、感謝の気持ちを持つことができました)
英語の grateful という単語の語源はラテン語の gratus(喜ばれる、好ましい)で、贈り物を受け取った者が抱く喜びと負債の感覚 を表す言葉です。親鸞の「報恩感謝」と語源レベルで重なる。人が自分の有限さに直面したときに浮かんでくる感情は、文化や言語を越えて同じ場所を指している ようです。
棺桶の中で起きていること
感謝は、頭で理解するものではありません。親鸞自身が、20年の修行の挫折・流罪・雪国での暮らしを経て、体で掴んだ実感を「報恩感謝」という一語に削ったものです。
棺桶の30分も同じです。蓋が閉まり、視覚が遮られ、思考が減速していく。そのとき手元には誰もいません。それなのに、出てきた人が真っ先に書く言葉が「ありがとう」「生かされている」だというのは、どういうことでしょうか。
ひとりになって、自分の体が呼吸していることに改めて気づく。自分の力で吸っているのではなく、勝手に吸われていることに気づく。心臓も、消化も、体温も、自分が動かしているのではない。生きているのではなく、生かされている。この感覚が、30分のなかで体に降りてきます。
そこから出てきた方が、迷わず受動の動詞を選ぶ。「ありがとう」「生かされている」。800年前に親鸞が雪国で念仏とともに到達したものを、東京の棺桶のなかで30分かけて再発見している。
人類はずっとこれを繰り返してきたのだと思います。
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